2013/02/26

海が月を孕んだ朝にぼくの美しい母は死にました





その日は何もかもが厭わしく、腹立たしく、惨めに見えた。車から建物に入る一瞬、全てを捨てて逃げてしまおうかとも思ったけれど、何処にも行く場所はなかったし、出来ることもないし、仕方なく目を瞑りながら観たいものだけを想像した。

僕は、僕の役目さえも果たせない。
人の振りを見て抱く悪意は全て自分の所為だと分かっているのに何もせず、感情を顔に表して周りを困らせる。ある人からは直接叱られ、ある人は見て見ぬふりをして、ある人は見下しながら僕を慰める。そうして僕はますます可哀想な子になっていく。どんどん落ちていく。音が聞こえる。体が空気を切って、急降下していく音。それはまるで体の中から聞こえるような低く、重い音だった。

家に帰ってきても、一人になれる訳じゃないのに、怖くて震えていた。あの落下音が耳から離れない。「若いから」と一括りにされた不安はじわじわと体の中に染み込んで初めは好きで迷い込んだ思考の中で溺れていた。いっそ本体も。そう思って浴槽に浸かった。

そこに彼が居た。「一緒にいてあげるよ」とここまでついてきた。彼は衣服を身に付けたまま浴槽の縁に腰掛けてボディーソープを詰め替えている。その毒々しい科学的な匂いと、溢れる泡を纏ったような人は何も話さず、黙々と作業を続ける。

僕は静かに目を瞑った。
想像の中の僕の前に現れたのは世界で一番知っている人。育ててくれた女の人。若い彼女はまだつかまり立ちしか出来ないような子供を抱いて、水に浸かっていた。神々しく輝く女性の顔は、泣いていて、それを見て僕も泣いていた。

「僕も子供だったから、あれが本当なのか妄想なのか分からないけれど、あの映像が見えるようになってから僕は落ちていく自分自身に気がついたんです」

依然、ボトルと泡と香りを抱えそこにいた彼に僕はそう言った。彼は何度か瞬きをした後、泡の付いたままの手を僕の頭に乗せて笑う。そうしてそのまま下に押されると当然僕は浴槽に沈んでいった。ぶくぶくと泡を吐き、溺れる僕は急降下していく時のように状況を受け入れるわけでも、客観視する訳でもない。ただ「死にたくない」と必死でもがいた。

「お前が夢見た場所には近づけた?」

彼は未だ浴槽の中の僕にそれだけ言うと、頭の上の手をどけて溺れる僕を救いあげた。そうして僕は自分の為にまた只管泣いた。その間、彼は僕の頭を撫でながら子供をあやすようにして笑う。僕はまだこんなにも子供で、なのに世界を知ってしまった。そして僕の中には総てを失うことを意味する想いが生まれている。

彼が---。




title by 月葬 

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