2012/09/07

手首の夢




あの頃、私は天使だった。
何もなくただ広がる野の上で只管人間を探し、罰を与え、殺していた。純粋な正義心、この世の浄化が私の仕事。人間を狩ることに何の喜びも感じなければ、悲しさも感じない。けれど空しい。どれだけ殺しても報われない。世界はますます血で汚れていく。私はこんなにも精魂果たして仕事をしているというのに、人間たちは一向に変わらない。同じ人間であった私も自分自身を恥ず程に。


天使はもともと人間だ。子供は天使と人間の間の存在である。それが分かれるのは大体物心ついた頃。「明らかに自らは天使である」という思いに駆られ、次第に羽が生えてくる。白く、まだ小ぶりな羽でも、天使と人を分かつには十分だ。人間に対する圧倒的優位。人間に対する存在否定も容易に行われる。何故なら私は天使だから。それ以外に理由など要らなかった。


そうして、正義の鎌を振るうようになってからも私は迷いに苦しむことはなかった。両親は卑しくも人間だったので、すぐに殺すことを決めた。けれど、それは簡単なことではない。鞭で打ち、両手足を切り落としてから殺す。彼らはのたうち回ったが、自分たちの子供が天使なのだから仕方がない。最期は水に沈めた。手足がないからずぶずぶと落ちていく彼らを見て少しだけ泣いた。「天使でよかった」と彼らに感謝した。両親が受けるような仕打ちを受けないのも、私が天使であるからだ。それが嬉しくて少しだけ泣いた。


それから私は野に出でた。狩っても狩っても減らない人間を懸命に殺す。拷問には時間がかかるので、日に五人と殺せないが仕方ない。けれどその不甲斐なさには死にたくなった。


そんなある日、私は人間を二人捕まえた。私と同じくらいの年の少女たち。彼女らは私が何を言っても、何度鞭で打ってもその手は離さなかった。そのうちに一方が死んだ。それでも手は繋がったまま。生き残った方はと言えば、命乞いをすることもなく、切られた相手の手首を握っている。そんとき私は気がついた。彼女は天使になることが出来た人間だと。


「なんで天使にならなかったの?」

私には分からない。そこまで人間に拘る理由。

「なんとなく」

彼女が短く答えた。理由になっていない。

「人間なんて何が良い?無知で汚くて悪でしかない」
「そんなことないよ」


そう言って手首を撫でる彼女を見てはっとする。もしかしたら、私は何も言えない。ただ、頭の中には様々なことがめぐっている。彼女が正義と引き換えにした愚かさと何か。私の知らない何か。これまでもそしてこれからも、触れることはないそれは私の長い一生で求めても手に入れることが出来ないものがあるのだと感じさせた。暫くして、彼女も死んだ。だから私は何かについて考えるのを止めた。

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