2013/01/03

crocodile

いつもいつも僕はあの人をなんとか捕まえていようと、縋って、泣いて、叫んでいた。なんでなんでと繰り返して、声を枯らしても無駄だったことに気がついたのはたった今。



少し前、姿を消していた兄さんは街外れのごみ捨て場で気を失っているところを発見された。と言っても、抱き起こされるまでに多くの人がその前を通り過ぎて行ったらしい。けれど、誰も兄さんに手を差し伸べず、細身の体と綺麗な顔に性的興奮を覚えた男が家に連れて帰ろうと担いだ時に目が覚めた。そんなことを兄さんは言っていた。汚いその場に横たわる間も意識が途切れ途切れあって、また死ねないのかと落ち込んだと。

それが少し前のこと。家に帰っても満足に食べられないし、身体も充分に癒えないのはわかっていて、だからこそここに留まるつもりはないのだと、そう言った。

「兄さん、どこに行くの」
「薬局」
「だめだよ、行っちゃ」
「どうして」
「僕をまた置いて行ったら、死ぬよ」
「……死ねばいいよ」

どんな言葉も無駄だった。なんの意味もなかった。だから、僕が死んだところでまたそれもきっと無駄。全部無駄。全部全部全部全部全部。

そうしてある日、兄さんは帰ってきた。その前まで兄さんは病院いて、そこで左腕を切断し、更に右脚が腐りかけて、その汚い包帯を解けば骨が見えているのだと言う。にやけたその口からは「神様」とか「霊魂」とか「精霊」とかそんな戯言が無秩序に繰り返され訳がわからない。兄さんを連れてきたカルト教団の信者の一人は「神に救われるしかなかったのです」と講釈をたれる。それはつまりどういうことなの?

気づかない振りをしていたわけではない。ただ口に出す必要がなかっただけだ。僕ら兄弟には親は居ない。蒸発した父親を恨みながらも僕たちを育てた母親は一年くらい前に心臓発作で死んだ。その時、兄さんはまだ平気だった。ちゃんと働いて、貧しくても生きていた。おかしくなったのは、飼っていた猫が死んだ時。僕が間違ってた猫にネズミ駆除の薬入りのオートミールを食べさせたから。間違ってだったと思うけど、今はその頃のことをあまり思い出したくない。

貧しくて、貧しくて、生きていくのが辛くなった時、人間は命を軽薄に扱うようになる。ある人は宗教狂いになって人格を捨て、死ねと言われたら「自分は生贄なのだ」と強く信じて熱した油にも飛び込む。そして、ある人は兄さんのように快楽に逃げる。身体を削りながら溺れていく。

初めのうちはまだ良かった。それでもまだ法律で禁止されるようなポピュラーで得体の知れた物だったから。でもそれは仕事もしなくなった兄さんにはあまりに高く、それに溺れた身体には弱過ぎた。その頃、インターネットではあるひとつの物が話題になり始めた頃で、兄さんも人づてにその存在を知り、薬局へ向かった。目薬と胃腸薬とあとなんだったか。4種類くらいの医薬品とガソリンを混ぜて、熱して冷やせば出来上がる。それは高値で手が出なくなった物の10分の1の値段で3倍の効果が得られるまさに魔法の薬だった。流行り始めの頃はその効果と非合法性に誰もが食いついた、例えその中にガソリンが入っていても。だけど、強い効果にはあまりにも大きな代償がついてくる。脈の中に打ち込めればまだいい。問題は外してしまった時だ。他の物なら鬱血するだけでなんとかなる。でも新たに発見されたそれは違った。直接肉に注射するとその周辺の筋肉組織が崩壊していく。ぼろぼろに朽ちていく。その様子はまるで大きな鱗が剥がれていくようで、そのことからそれは「クロコダイル」と呼ばれるようになり、相当なジャンキーでも避ける物になった。

そんな曰く付きの物を手にするのは幼く稚拙な子供たちだけ。ここら辺に住む彼らには元々明るい未来などないから、誰よりも躊躇いなく安易な快楽に手を伸ばす。その中の一人が兄さんだった。

今、僕らは薄暗い廃墟同然の元マンションの一室に居る。床には誰が捨てたか、いつ捨てたのかもわからないゴミや注射器や薬の箱が散乱している。そこで兄さんはたまに唸り声を上げながら「悪人の居ない映画を作りたい」と現実を避け目を瞑る。所詮、声に出すのも憚られる妄想に過ぎないのだけれど。

「兄さん、起きて」
「ああ」
「もうそろそろお金を借りてた人たちが取り立てにくる。次に捕まったら殺される」
「……もういいよ、どうせ明日死ぬ」
「なんでわかるの」
「わかるよ」

兄さんは本当に神様と話をしているのかもしれないと僕は思うようになっていた。この頃「なんとなく」とか「そんな気がする」とかそんなことばかりだ。仕方ないから僕は汚いマットレスの上に横たわる兄さんの横に腰掛け、包帯でぐるぐる巻きにされた右脚に触れる。クロコダイルのせいで、痛いという感覚もしばらくはなかったらしい。だから肉が削がれていっても笑っていたと。そんな脚でどこに行けるのかとも思うけれど、最近でもたまにいなくなることがある。一晩とか一日とか。大抵その後に会って見ると手足は傷だらけで、きっと見えないところも同じようになっているか、それ以上なのだ。なにをしているか、そんなことはどうでもいい。それよりも、兄さんが僕の前から消えたくて仕方がないように見えて、それがなによりも僕の神経を逆なでした。

「兄さん、この右脚もなくなっちゃえばいいのにね」
「え?」
「僕がもらってあげるよ」

おもむろに近づいた顔と顔は躊躇なく一点で触れた。舌で割り入りながら掻き回すと同時に、手に持ったレンガを振り降ろす。当然のように中に入っていた舌は驚いた兄さんによって噛まれ血が流れた。けれどそれよりも、ほとんどすかすかの骨だけで残っていた脚は身体から切り離され、床にぽとりと落ちたことのほうが重要だ。

顔を引いて見つめた兄さんの目には涙が溜まっている。痛かったのかと一人で納得して血を纏った舌で涙を掬うと、それが染みてどうしようもない。

「猫が死んだ時、俺も死んだんだ」

兄さんが久しぶりに神様以外のことを話した。かと思えばなにを言っているかわからない。

「あの時お前が遠くに行ってしまう気がした。それと同時に俺はお前への異常な執着を知った」
「なにいってるの」
「狂っていた、もうずっと前から」

それからまた兄さんは神様についてしか話さなくなった。僕は痩せ細った兄さんを背負ってその廃墟を出る。兄さんはその背中の上で歌を歌う。古い古い異国の物語


ある晴れた日曜日のことさ
浜辺に死体が転がっていたのさ
角を曲がって消えた男が居たんだが
そいつがメッキーメッサって呼ばれるやつさ


いつのまにか兄さんはメッキーメッサを神様と呼ぶようになった。僕らを救う唯一の神様なのだと。でも彼はドイツの人だから、僕らの元に来てはくれないんだよ。ねぇ、兄さん。誰も僕らを助けてはくれないんだよ。






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